手鑑 ◆ 杢兵衛 寺田慎太郎 ◆
「手鑑」というのは、写経や和歌集、物語など様々な古筆の断簡を
厚手の台紙に貼って「帖」に仕立てた物です。
室町時代後半あたりから手鑑は作られ、江戸時代に大流行したと言われます。
武家や町人のみならず、昔の冊子本や巻子本を大事にしていた天皇家までが
この手鑑作成に奔走していたらしく、現存してはいないものの
「禁裏手鑑」なる物まで作られたようです。
古筆つまり先祖が残した筆蹟を尊重する風潮は随分昔から存在し、
かの有名な「徒然草」には「ひとり灯のもとに文をひろげて、
見ぬ世の人を友とするぞこよなうなぐさむわざなる。
・・・この国の博士どもの書ける物も、いにしえのあはれなる事多かりし」とあります。
古人への追慕、そして古人の筆蹟の精神性、芸術性の高さに対する畏敬の念が
手鑑成立の背景にあったのだと思います。
江戸時代に入って手鑑の所持が一種の権威的要素を持ち出すと、
人々は競って古筆切を収集して手鑑を作ろうとします。
この手鑑には決まり事みたいなものが存在し、
手鑑の第一頁には「大聖武」と呼ばれる聖武天皇筆とされる
「賢愚経」という古写経が貼られます。
次に光明皇后筆とされる「蝶鳥切」と呼ばれる古写経が貼られます。
順番はこの後も「親王」→「摂家」・・・「高僧」→「連歌師」→「武家」などといった具合に
ある程度定められていて、これを踏み外すと価値が低く見られます。
それ故必要な断簡を強欲に集めようとして容赦なく
巻子本や冊子本が切断され、細分化されます。
当然の事ながら数に限りのある古筆は不足してきます。
すると贋物が流出するようになり、これを受けて古筆鑑定を生業とする人が登場し、
更に「慶安手鑑」という手鑑の複製が出版され、
手鑑の教科書的役割を果たすようになります。(私の想像を含めて表現しています)
明治期にはこういった秘蔵の手鑑が世間一般に出回るようになり、
更に多くの人々の要望から手鑑に貼られた古筆切が剥がされ
掛幅に仕立てられるようになっていきました。
大流行した手鑑も明治期に入り、激減していったのです。
以前、京都国立博物館で国宝の「藻塩草」という手鑑を鑑賞した事があります。
これは「見ぬ世の友」(出光美術館)、「翰墨城」(MOA美術館)と共に
三大手鑑の1つに数えられています。
明白な素性は当然知りませんが、もし上記のような時代背景の下で
幾多の危機を乗り越えて当時のままの姿で現存しているのであれば、
改めてその貴重な体験に感動を憶えます。
筆蹟に芸術性を見出す民族は世界においても稀だと聞きます。
漢字と平仮名が融合し、調和した、流れるように美しい日本の文字を私は愛して止みません。
この融合力、調和力、そしてそういったものに美を見出す日本人の美意識全て
日本人のアイデンティティの1つだと考えても良いのではないでしょうか?
そして誇りに思うべきでしょう。
今なお受け継がれる手鑑をはじめ多くの古人の筆蹟を多くの古人と同様、
彼らの意思と共に大切にしていきたいですね。
投稿者 culin : 2007年01月30日 21:49