2006年11月10日

日本料理ってなんだろう?          辻調理師専門学校 小山伸二

1999年から2002年まで、私はフランスのリヨン近郊で暮らしていた
(日本料理アカデミーの第1回フランス遠征の舞台になった、
辻調フランス校「シャトー・エスコフィエ」に勤務していた)。

海外に住んだ経験のある人なら、誰しもが感じることだが、
自分の出自、自分の国というものについて、
さまざまなことを思った3年間だった。

日本という国。日本語という言語。
そして、もちろん、日本料理といわれている料理。
それらは、いったい、何なんだろう、って。

帰国してから4年。
その問いかけは続いている。

だから、京都で、大勢の料理人さんたちと話しをしているときも、
いまここで話されている「日本料理」は、
いったい、いつの、どの地域の料理について話されているのか、
と、議論から脱線して頭のなかで考えたりしてしまう。

トマトがアメリカ大陸からもたらされる以前と
以後のイタリア料理(イタリアという国という概念も近代以降のものだが)と同じように、
干した出し昆布や洗練された形で加工された鰹節が開発される以前と
以後の日本料理は、違うのかどうなのか。

仏教渡来以前・以降、茶の移入以前・以降、幕末・維新期以前・以降、
近いところでは、関東大震災以前・以降、
第二次世界大戦(日中戦争、太平洋戦争と呼ぶべきか)以前・以降。

日本に限らず、ぼくたちが、外国のことや、現在とは違う時代のことを語り、
考えるとき、ときとして、フェアーな遠近感を失うことがある。
あるいは、定型的な、一面的なものの見方に足をすくわれることがある。

その典型が、日本人はこう、アメリカ人はこう、
そして、フランス人は、こうだ式の、例の見立て。

すこしでも、外国で生活したことがある人なら
だれでも知っていることかもしれないけれども、
法律的な国籍や生理的な国籍で人間はなかなか区分しがたい、ということに。

自分の主張を一歩たりとも譲らない日本人。
異文化をリスペクトできて弱者に限りなく優しいアメリカ人。
そして、協調性があり時間厳守もできるのに自分の意見が言えない、
あるいはそもそも個というものがないへなちょこなフランス人。
そんな人は、いくらでもいる。たぶん、少数だけど。
だから、いくら少数といって、実際にそういう人を知ってしまうと、
以降、軽々に、だからアメリカ人は、とか、まったくフランス人は、とは言えなくなる。

こんなこと当たり前ですが。

東京人がみんな地方出身の田舎者でないように、
大阪人がみんな明るくないように、京都人が、いや、ここらでやめましょう(笑)。

もちろん、ものごとを単純化することで
大きな物語や哲学や理論を構築するということは、
近代西欧が産んだ英知には違いないが、
その英知が、アウシュビッツやパレスチナ問題を同時にうんでいることも、
おおくの人が知っていることだ。

つまり、こういうことだ。

ひとは、身近に直面していることは、なかなか俯瞰的に見られない。
だから、日々、直面していることに、つい不用意に、十把一絡げ
(話が脱線するけど、この「十把一絡げ」という言葉は美しいですね)に、
日本料理は何々だとか、フランス料理は何々だとか、
アメリカ料理は何々だとか、断言してしまう。

日本料理を、高級料理も大衆料理も、都会も田舎も、
関東も関西もいっしょくたに話してしまうことは、
フランス料理でも、おそらく、どこのエリアの、どの時代の料理にもいえるに違いない。
 
だからこそ、ひとと意見交換をしたり、議論するときには、
前提になる対象の定義が必要不可欠になる。

これは、めんどくさいことだ。

めんどくさいことだけど、お互い、かぎられた時間を無駄にしないためには、
どうしても踏むべき手続きなのだ。

日本料理とは何か? この問いかけに出会ったとき、
ぼくたちは、この南北に長い列島のさまざまな時代や地域、
そしてさまざまな時間や場所での、
高級/大衆、伝統/革新、さまざまな局面での日本料理に思いをはせながら、
そのときどきで、対象をしぼりこんで、
相手と、とくに異文化に属する人とは、議論を共有したいものだ。

大阪で、京都で、パリで、ニューヨークで、
ぼくたちは、さまざまな価値観と哲学をもった友人たちと、
じっくりと、なんどでも、日本料理とは何か、語りあいたい。

投稿者 culin : 2006年11月10日 15:22