2006年10月23日

世阿弥“せぬ暇”について                嵐山熊彦 栗栖 基

前回と同様に古典芸能における“間のとらえ方”について
私見になりますがお話を続けたいと思います。

“能”の大成者である世阿弥の著述に“せぬ暇”という真に難解であり、
能において非常に重要な言葉があります。

世阿弥によれば“能”においてもっとも大事なことは、
すべてのテクニック・身体の表現を一瞬にして凝集していくことであり、
内面性をひたすら持続することにある。

つまり、外見的な世界を断ち切って、
切っていくことから生じてくる内面的な静と動の美しさを
演者が表現することを第一とし、
ここに古典芸能の極意があると述べております。

とくに能・謡曲の場合、一つの型から一つの型に移る瞬間が重要であり、
それを一本調子で、同じリズムに乗ってやってはいけない、
連続的にしてはいけないと世阿弥は言っており、
それを現実に行う為に、“間を抜く”と言う、
つまり“間を入れる”のではなく“間を抜く”と言うことにより
規則的な拍子や所作に“せぬ暇”が生まれるのだと述べております。

“せぬ暇”とは何もない“無”であり、間を外すことである。
あえて意図的に間を抜くことで、
むしろ不連続な間を作ることにより次に何が起こるのか、
何が起きるのか、その驚きと期待の緊張感を演出することが
世阿弥の言う“せぬ暇”であると考えられます。

現代風に考えれば、“間”とは一定の連続的な
リズムのリピートを想像しますが、
古来より日本人が創造してきた“間”というものは
“生命の息吹”つまり人間の呼吸にたとえるとすれば、
“生命が躍動している瞬間”であり、
それは森羅万象のリズムの中で生かされている人間が
本能的に身に着けている内面にある見ることのできない時空間的なもの、
不定的な緩急を伴う生命のリズムのように感じられていたのではないでしょうか。

また、絵画についても同じようなことが言えます。
東洋や日本の絵画、特に水墨画などは
余白を非常に重視します。これも一つの“間”といえましょう。

一つの演奏、一つの表現が終わったあとで、
名残おしい情緒がよりいっそう深まってくることがあります。
つまり、“余情”が残るわけです。

何もない余白にこそ、書かれざる無限の思いをこめた画面があるわけで、
すべてを埋め尽くすと言う事は“無”をなくす事、
つまり現実に見える世界しか残らず、
そこから派生する無限の想像力を奪いとることになります。

日本人の美意識は絵や書の余白から限りない想像力と
未知なる芸術性を膨らませることができます。

人間がやるべきことは、ほんのわずかなきっかけで“余白”をつくり
それを暗示させればよいわけで、いやそれ以上はできないのかもしれません。

このように、音楽的に休符(時間)を意味する“間”、
絵画における空間的“間”というものをひたすら追い求め、
またその壁の向こう側に、本当の真実が存在するように思われます・・・・

古来より今日まで、日本文化の中枢を貫くこのような精神性があればこそ、
日本が世界に誇れる文化・芸術が何百年のあいだ、
我々の生活と密着し、時代の流れともに
脈々といきつづけてきた究極の要因ではないでしょうか。

思いつくままに、ダラダラと手前勝手に書き込み失礼しました。
本来ならば料理やアカデミーの事業について書き込むべきところですが、
ついつい自分の趣味や花鳥風月の話になると、我が思いを綴ってしまいます。

次回こそ日本料理のお話ができますように、今から情報収集にいってきまーす。

投稿者 culin : 2006年10月23日 19:57