間のとらえ方 ◆ 嵐山熊彦 栗栖基 ◆
今年も9月22,23,24の日程でここ京都嵐山の地において音楽祭が開かれます。
と申しましても、今年で第5回を迎えるまだまだ歴史的には浅いイベントであり、
これからも認知向上にむけて実行委員一同、文化性、社会性を重視し
今ある自然財産を大切にし、自然と融合したイベントつまり、
自然の力と音楽の力が共鳴し人の“五感”に訴え“癒し”をもたらすような、
嵐山文化事業の核になるよう努力していきたいと思います。
そして、将来的にこのイベントを継続することにより、
京都・嵐山からのメッセージとして芸術性の高い文化事業を
国内外に発信できるように考えております。
それと同時に地域の活性化、この地を来訪される方々に、
個々の事業主、地域住民が京都らしい“おもてなし”ができるよう
地域が正常な発展を遂げることを願っております。
ここで私見になりますが、少し音楽というものについて
私の思いを述べさせていただければ幸いに存じます。
なんの自慢にもなりませんが、
ご縁をいただいて観世流謡曲のお稽古をさせていただいております。
私が述べるまでもなく“能”は今から600年以上も前に、
観阿弥・世阿弥親子により大和猿楽等々をもとに形成された
我が国最古の古典歌舞劇であり、
謡曲は現存する古典音楽において独自の発展を遂げてきました。
能の囃子で用いられる楽器は、
管楽器の笛(能管)と打楽器の小鼓・大鼓(大革)・太鼓からなり
4種類のうち打楽器が3種で能の音楽が拍子を中心に構成されていることがわかります。
特に和楽器の奏でる音符の長・短は洋楽器のそれと比べると短く、
音と音の“間”を非常に有効的に使っていることが解ります。
弦楽器を例にとってみても洋楽器は音を奏でるのに
弓を使う場合が多いのに対し、和楽器は撥を使います。
この事例からも古典音楽における洋楽・邦楽の音符の長さの違い
“間”のとらえ方の違いに日本独自の古典芸能の世界があると考えられます。
そこで我々、日本人が日常よく使う“間”という言葉に着眼してみると
(間が抜ける・間が悪い・間合いをつめる・間を外す・床の間)等々であり、
広辞苑を開いてみると(物と物、または事と事のあいだ。あい。
間隔。・長さの単位・歌舞音曲で所期のリズムを生むための休拍)などと出ており、
なかなか広がりがあって、複雑微妙、かつ深刻な言葉であります。
たとえば、能で息づまる音の空白があって、
耐え切れなくなったところでパーンと鼓が鳴る。
この息づまる空白も、まさしく“間”であり、
つまり物と物のあいだを空間として、
事と事のあいだを音楽に置き換えてみると時間と時間の切れ目と解釈できます。
ただし、空間的隙間と時間の切れ目は明らかに意味が違うわけで、
我々、日本人は無意識にこの言葉を使い分けていますが、
近代合理主義のなかで生きてきた外国の方には
なかなか理解しがたい日本文化の特質かもしれません。
この日本文化の特質の1つである“間”を料理に適用してみると
(茶懐石における膳出しのタイミング・調理における野菜の下茹で・
焼物の焼き加減・揚げ物における加熱時間)など
熟練した経験を要するものばかりで、
そのあいだにおける緊張感がなければ
すべてを台無しにする事もあります。
料理だけでなく絵画・日本建築・武道・歌舞音曲など
すべての日本文化に精通するものであり、
もう少し突きつめて考えれば“なにも無い”ように見える
空間・時間・精神を大切にし、
充実した“無”を作ることにより、
次にくる“有”が生かされるのでしょう。
このような考え方は、古来より日本人が崇拝してきた
自然信仰や和敬静寂の精神から生まれてきたもので、
それが日本独特の伝統的な芸術感性を育んできたと考えられます。
このテーマに関しては、まだまだ、お話したいことがありますが、
とりあえず、ここで一段落とさせていただき、
次回は世阿弥の“せぬ暇”についてもう少しお話できればと考えております。
※ 文中青字のリンク先は「ウィキペディア フリー百科事典」の各項目に繋がっています。
投稿者 culin : 2006年09月23日 15:19